松山城の二之丸はもう跡しか残っていませんが庭園になっています。
ここには大きい井戸があって、なんでも恋人の聖地だとか。
松山城を降りて二之丸に行ってみたのですが、降りる時の階段がまた険しくて。でもかなりショートカットになりました。(ロープウェイは基本使いません。)当時もこの道を通って本丸に通っていたのかなぁと思いに耽ってみたり。
市電を使ったら「県庁前」で降りて徒歩5分です。入場料は200円。30分〜1時間で全部回れます。
紅葉がいい感じでした。
『じゃばら』という柑橘類が植わっていました。初めて聞く名前でした。
史跡庭園の説明
二之丸史跡庭園は、松山城二之丸跡の敷地約1.6haを史跡庭園として整備したもので、平成4年5月に開園したということです。
内部は古い絵図や発掘調査に基づいて二之丸邸の間取りを遺構の上に表現したもので、部屋の間取りの中に各種の柑橘や四季折々の草花を植えた「表御殿跡柑橘・草花園」と、部屋の間取りの中を水が流れる「奥御殿跡流水園」と大きく分かれています。
池がカクカクしているのは間取りに則った形なんですね。
庭園の東側には「林泉庭」があります。
露岩を背景にした池や滝を配置してわび、さびを表現したそうです。
そのほか、有料施設として3つの茶室がありました。いいなぁ。やはり城の周りにはお茶がある。
二之丸の歴史

慶長7年(1602年)に建設が始まった松山城。
関ヶ原が1600年だったと思うから、2年後って急ぎやね。
松山初代藩主加藤嘉明によって建設が始められ、二之丸を含む城郭全体が完成したのはなんと二代目の時。ニ代藩主は会津藩から引っ越してきた蒲生忠知です。(1627年〜1634年)
蒲生忠知は頭が良く明君だったと言われます。加藤嘉明が築城した後に蒲生忠知がより良い整備を加えた、という感じらしいですよ。
二之丸は本丸(天守など)を防備するための設備で、南と西側には内堀があり、髙い石垣と強固な櫓や門、それらを繋ぐ堀によって囲まれ、その内側に藩主の生活や政務のための二之丸邸があったとされています。
北側の四足門が公式の門であり、藩主はこの門から黒口登城道を通って本丸へ登って行ったものと思われますとな。
明治時代になると一時期、二之丸邸は藩主・県庁として使われたこともあるようです。しかし明治5年(1872年)に火災により焼失し、270年余りのお役目と歴史に幕を閉じたということです。もったいなーーーーい:(;゙゚'ω゚'):
恋人の聖地
2013年10月1日に「恋人の聖地」として認定。
日露戦争の時にロシア人捕虜の男性と日本人女性の看護師のロマンスを秘めた金貨が出土したんですって。金貨に二人の名前が刻まれていたとか。
違うところにも小さいけど深い井戸もありましたよ。重機もなしにこんなに深く掘るってすごい。
俎石
まないたのような平べったい石がふたつ。すぐそばには案内看板がありましたが、どうも藩主の蒲生忠知が世継ぎができずに悩んでおり、兄が早世していることからいよいよお家断絶の危機に際して気が狂い、城の前を通った妊婦やわざわざ城下から妊婦を探し出しては捕まえてきて、まないた石に縛りつけて生きながら妊婦の腹を裂き、胎児を殺していたという言い伝えが残るいわくつきの石のようなのです。
そんなことを繰り返して、やっと男の子を一人授かったのですが、物の言えぬ子どもだったと。病弱だったようです。そしてこちらも早世してしまい、蒲生忠知は世継ぎをもうけることなく31歳でなくなってしまった。
蒲生家は3代しか続きませんでしたが、名君の家系と聞いています。この忠知も名君と言われていたはずですが、世継ぎのことで気を病み暴君に変貌したということです。でもこの話はほぼ作り話だろうとされています。夜な夜なこの石から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくるというのも嘘です。嘘であってほしい。
やはり心配しすぎたり周りの人の目を気にしすぎたり、とにかく気を病んではろくなことはないし、また逆に他人を気に病ませてはいけないなぁと思いました。