国立病院機構柳井医療センター

山口県柳井市の伊保庄というところに国立病院機構柳井医療センターという病院があります。

 

ここら辺は海に面して昔は塩田だったらしいです。山の上に猿田彦さんの祠があったり。猿田彦神社があるところは塩の流通に関係していた可能性があると言います。

昔の熊毛郡というところは塩がよくとれたのでしょう。台風の時は大変ですがのんびりとした本当に田舎です。今は柳井市伊保庄になっています。

 

海と山に挟まれた平和な田舎に建つ病院ですが、ここは昔の陸軍病院でした。元陸軍西部第8部隊(船舶工兵)として開設されたのが、広島に原爆が投下されて広島第一陸軍病院が移転しました。また、広島・山口・島根県下に疎開していた臨時分院が整理され集められた、急ごしらえの病院だったといいます。

 

爆心地から60キロくらい離れているこの地になぜ病院が建ったのかというと、都市部は空襲で焼けて大きい建物が残っていない。それでも爆撃を受けた直後から負傷者は全身焼け爛れても町中から逃げてくるのです。広島市周辺は一気に負傷者で溢れかえります。柳井は空襲を受けず兵舎が残っていましたので負傷者と医療従事者を船で移送し、第一陸軍病院が移転してきたのです。

 

キノコ雲は山口県からも島根県からも目撃されています。空はしばらく紫色だったと.。

 

国立病院機構柳井医療センターは今では「国病」と呼ばれて、私は昔の結核病棟だったとしか聞いていませんでした。たしかに奥の方にあって人里離れているかもしれません。

 

伊保庄の国病で原爆被災者の治療が行われていたとは。1971年だったかな、当時の治療にあたった医師たちの報告書や患者のカルテがみつかっています。

 

私は実際に治療にあたった医師の話を文章で読んだことがあります。本ではなくインターネットだったと思います。どうやってそのページに辿り着いたか今ではわかりませんし動機も忘れました。たぶんこの時期の広島について興味をもったので検索していたのでしょう。

原爆の威力の凄まじさや爆心地での状況は子供の頃からよく聞いていましたが、投下されたあとの悲劇、負傷者の状態の残酷さを丁寧に説明していて、かなり心に残っています。

 

あの田舎でこんな地獄が。何度も吐いて苦しんでとかそのようなレベルではないです。負傷者たちの苦しむ声、皮膚の色、骨、血、臭いがどうだったかが直接的な言葉で書かれていました。不潔な部屋に薬もない。火傷はひどくないのに何日後になになに、その次はなになに、最後の方はなになに。その時間の経過が誰にとっても残酷です。遺体の引き取り手が見つかるわけでもなく。

目を覆いたくなる、耳を塞ぎたくなる感覚がわかりました。被爆してからの治療の期間のなんと悲惨なことか。これが原爆症。

 

それから、この文章を読みながらなぜ私は今知ったのだろうとも思いましたね。今まで誰にも聞いてこなかった。結核のことは聞いていたのに原爆症の療養所とは誰も言ってなかったな。学校でも習ってないと思うけど忘れたのか。

 

恥ずかしい限りです。どうやって戦争を語り継いていくのか、その大変さ難しさが身にしてわかりました。教えるから聞いてくださいと言われてとりあえず聞いているとか、受け身で聞いているだけでは忘れるでしょう。知ろうとする姿勢が何より大事です。