茶道にアートに〜雪ノ下たますだれ〜

煎茶道時々アロマ 美術や自然のことなど好きなことを綴ります(日本アロマ環境協会(AEAJ)アロマアドバイザー センセーションカラーセラピスト)

山口県山口市にある茶室で倒幕会議が開かれていた

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国宝 瑠璃光寺五重塔(こくほう るりこうじごじゅうのとう)


綺麗な青空ですね。

山口県の香山公園です。山口県庁のすぐ裏です。

http://yamaguchi-city.jp/details/aa_kozan.html

ここの公園内に露山堂という茶室があります。

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 1863年4月に、萩藩主毛利敬親が幕末の政情のために、藩庁を萩から山口に移しました。今の山口県庁のところです。

 

その時の近くにあった一露山の麓に茶室を設け、一露山の一の字を省いて露山堂と名付けたのが、この建物だそうです。

 

敬親は茶事と称して身分関係なく、いろんな人をここに呼んで倒幕王政復古について密かに議論をかわしたとあります。

 

廃藩置県の後は移築され、持ち主も入れ替わるうちに朽ちていくので、それをみた敬親の側近品川弥次郎が買収し、明治24年4月に現在の場所に移しました。

茶室周辺の庭園はこの時つくられました。

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路地

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かわいい灯篭

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水が濁っている池

濁っていましたし、葉っぱも散乱していて、嵐がさったあとのように茶室全体が荒らんでいました。

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誰が袖の手水鉢(たがそでのちょうずばち)

この手水鉢は、京都の小堀家から岩国の吉川家に贈られ、その後毛利敬親に献上されました。側面からみると着物の振袖のような形をしているのでこの名がついたそうな。


水禽窟という江戸時代の造園技術の粋もあしらわれています。

仕組みは、底に穴をあけたカメを逆さまにして地中に埋め込み、そのカメの中に手水鉢の排水を水滴として落下させることにより、カメに反響する音を発生させるというものだそうです。

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これはなんだろう かわった灯篭

 茶室で議論を交わしていたとありますが、お茶は準備されなかったのでしょうか。せっかくだからお茶を飲みながら話したらいいのでは、と思うけど、倒幕について白熱した議論をくりひろげられたのでしょうから、お茶を飲んでる暇はなかったかもしれません。

 

雪ノ下は煎茶道を習っておりますが、煎茶道は江戸時代ごろから文人たちの間ではやっていったと聞いています。

幕末維新の変革の時代には、煎茶は元来の批判精神で勤皇派となり、茶の湯の佐幕派と対立。維新後は、支配される側だったものが、一転、新政府や経済界の実力層になり、その中にはかつての志士も多かったため、煎茶は、これまでにない発展を遂げます。

https://intojapanwaraku.com/travel/1355/

とあるので、一回ぐらいは煎茶を飲んでたかもしれませんね。と思ってみたり。

 

毛利敬親

政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価がある。幕末の動乱の中心を担った藩の藩主であるにもかかわらず、幕末の四賢侯にも数えられていない 。
しかし、ことに教育に熱心な藩主であり、彼の家柄や年齢にこだわらずに優秀な才能を信頼する性格が、幕末の世に多くの人材を輩出させている。特に11歳も年下の下級武士の息子である吉田松陰の才に惚れこみ、自ら山鹿流兵学の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。
敬親は有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで、窮乏していた長州藩を豊かにし、「倒幕」をも成し遂げさせた。当時としては奇異なタイプの藩主と言える。

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